△ 聞き語り貞観大津波(869-貞観11年)
△資料・18年に及ぶ天下大乱大震災-貞観の世紀
△慶長16年(1611)・慶長の三陸大津浪
△聞き書き・3.11戦訓
△3.11東日本大津波-警報発令の経過
△3.11平成の三陸大津浪-検証
●拙宅 早い段階で返し浪-引き浪でむしられる。
きれいさっぱり、思いもよらなかった。
●戦争に負け、昭和23年の[アイオン台風]に追い打ちをかけられるように、
前年のカスリーン台風に続き、県民は泣きっ面に蜂うち続く
洪水災害にさながら
"天を憾むこととどまらず、いずくんぞ神明あらんや"と。
なお小輩の記憶はこのときを嚆矢とする。
●一夜明けると泥どろドロ-約一尺と覚えています。
祖母、母親、小輩、ともども蔵にこもり、
配給の米を二階に上げた-梁下浸水。
○吾が故山も長い間大災害がなかった。そろそろ何か
来るのではと気にはなっていたんですが、とうとう来てしまった。
このとき以来かなと感ずるところです。
●3.11被災直後の状況
震度5強の大地震。すぐに3mの津波警報発令。
後6mの大津波警報に訂正。
30分後03:15~03:20津波来襲。
多分、第一波、第二波が折り重なって押し寄せた模様。
鍬ヶ崎壊滅状態。
光岸地は山の手の残すのみ。
旧舘は愛宕小学校の石段まで浸水。
築地はほぼ半壊状態。
向町、田町、末広町は2~3m浸水する。
鍬ヶ崎は同小学校の校庭まで浸水。
鍬ヶ崎上町、同下町、蛸の浜町、熊野町、山根町、日立浜町は
全壊す。
山田、田老は壊滅す。
1611 (慶長16) 慶長の大津浪と比較するため、
"日和見山(日和峠・標高25m超)"の頂上の海側にて検証。
墓石全倒壊。
"心公院(禅宗の寺)"の前まで大津浪が押し寄せた跡がみられた。
400年ぶりの大津浪と思われる。
◎ "日出島-日和見山からおよそ北北東2000mの沖合の島・標高58m・
沖側の水深80m"、
大津浪の波頭で見えなくなる。
△ 聞き語り・貞観大津浪(869-貞観11年)
九回発生し「東日本と西日本に最大級の被害」
五月二十六日の夜発生、いわゆる「三陸沖地震」と大津波M8.3。
仙台平野をのみ込み、大津浪は三陸、北関東まで及んだ。
宮城県多賀城など壊滅。死亡1000名。
その頃、京の都では水害・疫病が多発し、
その原因はこの世に憾みを
残した死者の災いと思い、その穢れを追い払うための行事として
京都「祇園祭」が、869 貞観11年7月16日より実施された。
その時には都人は2ヶ月前の三陸、北関東の大津浪を知っていたという。
◎ 宮古の古老の話(故110歳・昭和25年頃)によると、「宮古村には黒森山
には、カラスが三羽残るのみ」の大津浪であつたという、
言い伝えがあったと話した。
七月十四日の肥後国ノ地震と大津波。
△資料・18年に及ぶ天下大乱大震災-貞観の世紀
[千年に一度の巨大地震の世紀]
[1142年目の大津波 4 ・・・ 平安時代前期869年の『貞観大津波』 以来だった] サイト紹介 生涯一設計士・佐々木繁氏
[M9の大地震の後では、火山噴火の危険性が高まる]
サイト紹介 水無瀬氏
1. 貞観元年(859)
七、八、九、十、十一月と立て続けに地震が発生。
2. 貞観二年
十四回も地震が起き、
富士山の上空に「五色の雲」が現れた。
3. 貞観三年
七回の地震が起きる。
4. 貞観四年
十九回もの地震が起きた。
一、二、三月にそれぞれ二回、五、六月に一回、七月に二回、
九月に四回、十月に二回、十一月に一回、十二月に二回。
◎九月には「京都の人家の井戸が皆涸れてしまった」。
5. 貞観五年
地震の回数は七回と減ったが、
北陸の越中、越後で六月十七日に大地震発生。
6. 貞観六年
地震の回数七回。
◎東では「富士山が噴火」、西では「阿蘇山が噴火」する。
十月十二日 京都の地震。平安京は地震におびえる生活。
7. 貞観七年
富士山の噴火を含めて九回。
8. 貞観八年
八回の地震が伝えられる。
9. 貞観九年
噴火を含めて十一回の地震が発生。
◎五月十二日には再び阿蘇山が火山活動が起こる。
前夜「奇光が現れる。
10. 貞観十年
地震の回数二十四回にも及び、「貞観年間最大の
二番目という多発の年」となる。
◎七月八日 「播磨の大地震」-すさまじかった。
11. 貞観十一年(869)
九回発生し「東日本と西日本に最大級の被害」
◎五月二十六日のいわゆる「三陸沖地震」と大津波。
七月十四日の肥後国ノ地震と大津波。
12. 貞観十二年
五回の地震。
13. 貞観十三年
四月八日 出羽の鳥海山が噴火。
14. 貞観十四年
十三回の地震。
15. 貞観十五年
十二回。
16. 貞観十六年(874)
十四回と続いた。
◎薩摩の「開聞岳」が七月二日に噴火。
貞観十七年 九回、同十八年 八回と続く。
※ 引用
坂元義種-京都府立大学名誉教授の論文
[日本三代実録]、同論文の底本は、
[新訂増補国史大系本]を使用。
●貞観時代の世相
文徳天皇(もんとく・55代・850~858)の6年目から清和天皇(858~
876)の御代。平安時代初期。
摂政関白 藤原良房。
嵯峨天皇(52代)の娘源潔姫(-きよひめ)を妻とし、間にもうけた
「明子-あきらけいこ」を、文徳天皇の後宮に入れた。
また妹「順子-じゅんし」は、仁明天皇(にんみょう・54代・833~850)
の妃であり、文徳天皇の母である。
良房は、嵯峨・仁明にとって最も身近な親戚であり、
[承和の変-じょうわ--]によって、
嵯峨・仁明・文徳の直系王統が成立した。
△ 慶長16年(1611)・慶長の三陸大津浪
・浪は日和見山(蛸の浜)を越えて、
鍬ヶ崎村より押し寄せた浪とぶつかり合う。
・ 宮古、鍬ヶ崎村が全滅。黒田村に民家五軒残るのみ。
・ 三陸沿岸・北海道東岸 M8.1
・ 水死者 伊達領 1783、南部・津軽領の人馬の死 3000以上。
当時の世相
・ 1598 豊臣秀吉 死去
・ 1600 関ヶ原の戦い
・ 1603 徳川家康 江戸に開幕
・ 1611 三陸大津浪
・ 1614 大坂冬の陣
・ 1615 ----夏の陣
△聞き書き・3.11戦訓
『高き住居は児孫の和楽、想え惨禍の大津浪』
『高き住居児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪。此処より下に家を建てるな』
-重茂半島・姉吉 語り継ぎ伝えるべきこと
- 『児孫に伝えるべく2011年の大津浪』
- 『津浪の恐ろしさ又その後の哀れさ』
必ず言い残すこと。
- 『400~1200年に一度とはいえ、
その語りは"児孫の和楽の素となる』
H23 2011-04-30 高橋氏より語り継ぐ
△3.11東日本大津波の 警報発令の経過-H23 09 10
・ 同日 1446 地震発生
・ 同 1449 M7.9を基に大津波警報 発令
岩手 3m 宮城 6m 福島 3m
・ 同 1459 長野松代でM9.1と計算
・ 更新 GPS波浪計などの観測により
岩手 6m 宮城 10m 福島 6m
・ 更新
岩手~千葉沿岸 10m以上
・ 気象庁 M8.8と計算
H24 2012-02-28 1000
まぐろぐ
九回発生し「東日本と西日本に最大級の被害」
五月二十六日の夜発生、いわゆる「三陸沖地震」と大津波M8.3。
仙台平野をのみ込み、大津浪は三陸、北関東まで及んだ。
宮城県多賀城など壊滅。死亡1000名。
その頃、京の都では水害・疫病が多発し、
その原因はこの世に憾みを
残した死者の災いと思い、その穢れを追い払うための行事として
京都「祇園祭」が、869 貞観11年7月16日より実施された。
その時には都人は2ヶ月前の三陸、北関東の大津浪を知っていたという。
◎ 宮古の古老の話(故110歳・昭和25年頃)によると、「宮古村には黒森山
には、カラスが三羽残るのみ」の大津浪であつたという、
言い伝えがあったと話した。
七月十四日の肥後国ノ地震と大津波。
△資料・18年に及ぶ天下大乱大震災-貞観の世紀
[千年に一度の巨大地震の世紀]
[1142年目の大津波 4 ・・・ 平安時代前期869年の『貞観大津波』 以来だった] サイト紹介 生涯一設計士・佐々木繁氏
[M9の大地震の後では、火山噴火の危険性が高まる]
サイト紹介 水無瀬氏
1. 貞観元年(859)
七、八、九、十、十一月と立て続けに地震が発生。
2. 貞観二年
十四回も地震が起き、
富士山の上空に「五色の雲」が現れた。
3. 貞観三年
七回の地震が起きる。
4. 貞観四年
十九回もの地震が起きた。
一、二、三月にそれぞれ二回、五、六月に一回、七月に二回、
九月に四回、十月に二回、十一月に一回、十二月に二回。
◎九月には「京都の人家の井戸が皆涸れてしまった」。
5. 貞観五年
地震の回数は七回と減ったが、
北陸の越中、越後で六月十七日に大地震発生。
6. 貞観六年
地震の回数七回。
◎東では「富士山が噴火」、西では「阿蘇山が噴火」する。
十月十二日 京都の地震。平安京は地震におびえる生活。
7. 貞観七年
富士山の噴火を含めて九回。
8. 貞観八年
八回の地震が伝えられる。
9. 貞観九年
噴火を含めて十一回の地震が発生。
◎五月十二日には再び阿蘇山が火山活動が起こる。
前夜「奇光が現れる。
10. 貞観十年
地震の回数二十四回にも及び、「貞観年間最大の
二番目という多発の年」となる。
◎七月八日 「播磨の大地震」-すさまじかった。
11. 貞観十一年(869)
九回発生し「東日本と西日本に最大級の被害」
◎五月二十六日のいわゆる「三陸沖地震」と大津波。
七月十四日の肥後国ノ地震と大津波。
12. 貞観十二年
五回の地震。
13. 貞観十三年
四月八日 出羽の鳥海山が噴火。
14. 貞観十四年
十三回の地震。
15. 貞観十五年
十二回。
16. 貞観十六年(874)
十四回と続いた。
◎薩摩の「開聞岳」が七月二日に噴火。
貞観十七年 九回、同十八年 八回と続く。
※ 引用
坂元義種-京都府立大学名誉教授の論文
[日本三代実録]、同論文の底本は、
[新訂増補国史大系本]を使用。
●貞観時代の世相
文徳天皇(もんとく・55代・850~858)の6年目から清和天皇(858~
876)の御代。平安時代初期。
摂政関白 藤原良房。
嵯峨天皇(52代)の娘源潔姫(-きよひめ)を妻とし、間にもうけた
「明子-あきらけいこ」を、文徳天皇の後宮に入れた。
また妹「順子-じゅんし」は、仁明天皇(にんみょう・54代・833~850)
の妃であり、文徳天皇の母である。
良房は、嵯峨・仁明にとって最も身近な親戚であり、
[承和の変-じょうわ--]によって、
嵯峨・仁明・文徳の直系王統が成立した。
△ 慶長16年(1611)・慶長の三陸大津浪
・浪は日和見山(蛸の浜)を越えて、
鍬ヶ崎村より押し寄せた浪とぶつかり合う。
・ 宮古、鍬ヶ崎村が全滅。黒田村に民家五軒残るのみ。
・ 三陸沿岸・北海道東岸 M8.1
・ 水死者 伊達領 1783、南部・津軽領の人馬の死 3000以上。
当時の世相
・ 1598 豊臣秀吉 死去
・ 1600 関ヶ原の戦い
・ 1603 徳川家康 江戸に開幕
・ 1611 三陸大津浪
・ 1614 大坂冬の陣
・ 1615 ----夏の陣
△聞き書き・3.11戦訓
『高き住居は児孫の和楽、想え惨禍の大津浪』
『高き住居児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪。此処より下に家を建てるな』
-重茂半島・姉吉 語り継ぎ伝えるべきこと
- 『児孫に伝えるべく2011年の大津浪』
- 『津浪の恐ろしさ又その後の哀れさ』
必ず言い残すこと。
- 『400~1200年に一度とはいえ、
その語りは"児孫の和楽の素となる』
H23 2011-04-30 高橋氏より語り継ぐ
△3.11東日本大津波の 警報発令の経過-H23 09 10
・ 同日 1446 地震発生
・ 同 1449 M7.9を基に大津波警報 発令
岩手 3m 宮城 6m 福島 3m
・ 同 1459 長野松代でM9.1と計算
・ 更新 GPS波浪計などの観測により
岩手 6m 宮城 10m 福島 6m
・ 更新
岩手~千葉沿岸 10m以上
・ 気象庁 M8.8と計算
H24 2012-02-28 1000
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